近代日本と中国〈33〉

「影佐禎昭と辻政信」 7

 

 汪政権の軍事顧問に


 交渉が難航して理由の一つは、汪の脱出が蒋政権に与えた影響が意外に小さく、したがって日本側に、汪の利用価値が減じたことに失望する空気が高まったからでもあった。

 参謀本部はいぜん呉佩孚を中央政府の首班にかつぐ方針を捨てていなかったし、陸軍省は、汪政権は作ってもよいが、完全なカイライ政権にしよう、という腹で、政府・軍部ともに真の日中和平は、好むと好まざると蒋政権を相手にする以外にない、と気づきはじめていたのである。したがって、西義顕のように、こういう条件で汪をむりやり首班にすえれば、漢奸の汚名を残すだけであると言いだすものが出てきたのも当然だったろう。

 そして汪も一時は影佐に政府樹立を断念したいと言いだしたが、結局、同年末に、協議は妥結し、既存の維新(華北)、臨時(華中)両政府を吸収して、翌年三月南京で新政府が発足することになった。

 しかし、外務・陸海軍、民間等の各界では、汪政権の将来に期待をかけず、直接蒋政権とのあいだにルートを開こうとする和平工作が乱立し、なかでも香港駐在の鈴木卓爾中佐が開拓した宋子良工作には板垣支那派遣軍総参謀長、今井支那課長らが異常な熱意を傾けた。結局、宋子良は偽物と判明し、汪政権の承認を引延ばそうとする蒋政権の謀略にかかったことが明らかになったが、日本政府は調印式のため、南京に到着していた阿部信行特派大使を半年も足踏みさせたほど、この工作に期待をかけた。しかし「溺れる者はワラをもつかむ」というあせりを露呈しただけに終わり、11月末、日本はついにすべての和平工作を断念して、正式に汪政権を承認し、影佐は、新政府の軍事顧問に就任した。

 ところが、汪政権は、危惧されたとおり、日本軍の武力を背景としてのみ、存立しうるカイライ政権にすぎず、期待された蒋政権との合作も、15年秋の三国同盟以後、連合国陣営の最終勝利を確信するに至った蒋介石が動かず、泥沼戦争の様相はかえって深刻化するに至った。

 影佐は、多数の日本人顧問や軍人のあいだでは汪主席のもっとも心を許した友人として遇されたが、彼の役割はもはや終わっていた。

 17年6月満州の砲兵司令官に転出した後、中将に昇進した影佐は、18年6月、第三十八師団長に親補され、激戦下のラバウル戦場へ赴任した。この師団は、ガダルカナルで一度壊滅した後、再建され、ラバウル防衛任務についていたのであるが、米軍はこの要点を飛越えて日本本土へ向かい、主戦場から孤立したまま終戦を迎える。

 22年5月名古屋港に復員した影佐は、中国から戦犯指名を受けたが、壕生活でこじらせた肺結核とアメーバ赤痢が悪化して、国立第一病院で二年余の療養生活を送った後、23年9月10日、55歳で死去した。唯一の遺稿である『曾走路我記』には「18年12月13日ラバウルにて」と添書きがあり、生還を予期してなかった影佐が、汪工作を中心とする回想記録を残そうとする意向で書かれたものだが、個人的な感情の吐露は少なく、冷徹な謀略家であった彼の性格が反映している。

 このように影佐が、激情や夢想とは縁の遠い、新しい型の「支那通」軍人であったとすれば、もう一人ここでとりあげる辻政信は、さらに一〇年若い世代に属しながら、きわだって対照的な個性を発揮した、異色の軍人であった。

 

送り仮名は原文通り。漢数字の年号は算用数字に修正。

 

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