近代日本と中国〈33〉

「影佐禎昭と辻政信」 8

 

 型破りの猛獣・辻政信

 辻政信ほど波乱にみちた人生を送り、たえず論争の的であり続けた軍人も珍しい。その詳細は杉森久英氏のすぐれた評伝にゆだねたいが、一応彼の略歴を影佐と比較しながらながめてみる。

 辻は明治35年石川県の貧しい山村に生まれた。高等小学校から名古屋幼年校、中央幼年学校、陸軍士官学校(第36期)を経て、昭和6年陸大を優等で卒業、歩兵中隊長として第一次上海事変に出征した後、参謀本部の編成動員課に入るところまでは、典型的なエリート・コースをたどっている。

 しかし、昭和9年外国駐在員の機会を見送って、陸士中隊長を志願した辻は、士官学校事件の名で知られた陸軍部内の派閥抗争に巻込まれ、一時失意の境地にあったが、二・二六事件後に関東軍参謀に復活し、満州国の内面指導業務を担当する。

 辻が石原の知遇を得たのはこのころで、その影響により協和会運動を支援し、植民地化の程度を深めつつあった満州国を、「建国の理想」に引戻そうと、持ち前の行動力を発揮して奔走する。以後、辻は終生、石原を「導師」と呼んで敬意をはらったが、日中戦争の勃発にあたっては、拡大派の一員として北京に飛び、強硬派を扇動してまわった。

 しかし、この時期の辻は、中国に関して特別の関心や理念を抱いていたわけではなく、若手の大尉参謀として、血気にはやっただけのことではないか、というのが杉森氏の見解である。

 辻が初めて中国問題と正面から取組んだのは、ノモンハン事件の敗戦責任者として関東軍を追放され、支那派遣軍司令部付に転補された14年末のことであった。司令部付というのは、正式の参謀と異なり、特定の業務を持たない閑職である。辻は、内地の政治謀略事件に連座して、流されてきた桜井徳太郎大佐とともに、司令部特別棟の一室をあてがわれたが、参謀たちはここを「猛獣小屋」と呼んで敬遠したという。

 辻少佐が在任したのは、一年ばかりにすぎなかった。この間に彼は、占領地の民心を掌握する格好の理念として石原が推進していた東亜連盟運動に着目し、板垣参謀長を説得して、現地の実践運動を盛上げた。辻が起案して、板垣の名で全軍に配布した「派遣軍将兵に告ぐ」(15年4月29日付)は、「戦いの悲しむべき運命を自認し、事変解決は東亜連盟の結成以外になく、現下の事変は、その陣痛として克服し、真に両大民族の、心からの提携を目標として進む」ことを強調したもので、これを機に派遣軍は東亜連盟一本建てで進むことになり、11月に東亜連盟中国同志会が設立され、大民会、新民会、共和党など、在来の日本製民衆団体は解散させられた。

 

送り仮名は原文通り。漢数字の年号は算用数字に修正。

 

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