近代日本と中国〈33〉

「影佐禎昭と辻政信」 6

 

 目算外れの和平工作


 ともあれ、同年秋、汪派との接触は松本と梅思平間の会談で復活し、ついで影佐、今井が、犬養健や矢野征記(興亜院)を伴って上海の重光堂で、梅らとのあいだに具体的な和平条件の試案を審議するまでに進展した。

 そして11月20日「日華協議記録」がまとまり、そのなかで、1・中国の満州国承認、2・治外法権、租界の撤廃、3・無賠償については比較的早く意見が一致し、焦点の撤兵問題については、平津(北平・天津)地区の防共駐兵を除き、2年以内に撤兵するという日本側の大幅な譲歩で妥結した。いわゆる「「無併合、無賠償」であり、こうした”寛大な”条件は、軍部がようやく日中戦争の泥沼化に焦慮しはじめていた客観情勢下とはいえ、軍主流にとっては軟弱きわまる条件であり、民間人をも含めた影佐グループの熱情があって、はじめて可能であったろう。

 もっとも二年以内の撤兵という条項は陸軍主流の猛反対にあい、12月22日の第三次近衛声明では落ちてしまった。

 汪兆銘は、結局、この声明に応じるかたちで重慶を脱出して、仏印のハノイへ移り、ここを根拠に、反蒋運動を展開する予定であり、その結果、西南中国が蒋陣営から脱落し、中国の抗戦力は著しく弱まるであろう、と期待されていた。五相会議で汪の脱出成功が報告された時、関係者のあいだでは、蒋の黙認の下に行われたでではないか、という観測すら出たのであるが、そうした期待は裏切られる。

 汪と側近グループはハノイに孤立して、重慶側特務の包囲監視下におかれて、手も足も出ず、側近の曽仲鳴がテロに倒れるという状況で、汪はやむをえず活動の根拠を上海に移すことを希望した。

 影佐は、汪の脱出を助けるため、ハノイに赴いたが、上海への船中で、汪は、彼を首班とする中央政府の樹立を希望したのち「和平運動の目的は重慶政府をして和平論に傾かしめ、抗戦を中止せしめんとするにある。将来合流せんとする場合、予は目的を達したのだから断然下野することはなんらの躊躇を要さない」と語った。

 影佐は汪の切々たる心情に感動し、「その崇高なる精神、高潔な人格は、鬼神をして泣かしむるものがある」と書いている。

 昭和14年5月、汪は来日して政府首脳部と会談し、政府樹立に当って日本政府と締結する予定の和平協定を協議したが、日本側の要求は前年末の近衛声明にへだたることはなはだしく、影佐らは、汪を「二階に上げてハシゴをはずす」ことになる、として懊悩した。

 

送り仮名は原文通り。漢数字の年号は算用数字に修正。

 

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