近代日本と中国〈33〉
「影佐禎昭と辻政信」 3
外柔内剛の謀略家
影佐は早くから多田駿中佐(後の中将)に傾倒し、陸大でも中国語を専攻して、当時から中国専門家になることを希望していたが、本格的にこのグループに仲間入りしたのは、東大から帰ったのちの昭和4年である。彼はしばしば「支那課は頭の悪い者ばかりしかいないから、俺が行って、立て直すのだ」と放言していたと伝えられるが、旧態依然たる支那課の気風に反発して、新境地を開拓しようとする自負心があったことはまちがいないようである。 そして当時の陸軍が、この面で彼にかなり大きな期待をかけていたことは、昭和3年3月軍務局課員(軍事課)、4年3月中国研究員(北京、太原、開封、上海)、6年3月参謀本部員(支那課)、7年8月欧米出張、8年2月天津駐在(謀略)、8年7月参謀本部員(支那課支那班長)、9年8月上海駐在(大使館付武官補佐官)、10年8月軍務局課員(軍事課支那班長)というその後の彼の軍歴を見ても推察できる。 確かに影佐は自ら公言したとおり、支那課関係者のあいだでは一頭地を抜いた鋭い頭脳の持主として重きをなしたが、同時に中国政策については、人後に落ちぬ、積極的な侵略主義者でもあったらしい。そして、支那課のお家芸であった謀略にかけても、なかなかの手腕を見せている。 昭和10年6月、上海勤務時代に「新生不敬事件」として知られる一事件が起った。 上海の華字紙が「閑話皇帝」と題し、天皇に言及した不敬記事を掲載して問題になった事件で、有吉明大使は穏便に事をおさめようとしたが、それを不満とする分子が怪文書を送って大使を脅迫した。そこで石射猪太郎上海総領事が内々に調べてみると、犯人の背後で糸をひいていたのは、同じ館内にいる影佐中佐とわかり、磯谷廉介武官に処分を迫ったが、あいまいのうちに転勤で片付けられてしまった。石射は回想録のなかで、このころの影佐について、「面と向かっては態度いんぎん、話が軽妙で、外面的には練れた人物であったが、一寸も油断のならない、するどい謀略家であった」と記し、のちに近衛内閣の宇垣外相が辞職した時も、背後に影佐軍務課長がいたことを述べ、有名な土肥原賢二将軍などよりは、はるかに、すぐれた謀略家であったと気味悪がっている。 |
送り仮名は原文通り。漢数字の年号は算用数字に修正。