近代日本と中国〈33〉

「影佐禎昭と辻政信」 4

 

 泥沼化を予言した石原


 当時、陸軍は満州を占領したあと、華北五省の分離工作に着手し、っ昭和10年6月の梅津・何応欽協定、同月の土肥原・秦徳純協定を経て、11年には、冀東(きとう)・冀察(きさつ)両政権の成立、綏遠(すいえん)事件と浸食を続けていった。同時に、国民党政権による、全国統一も進行し、11年末の西安事件を契機に、中国共産党との合作も進んで、「抗日」をスローガンとする中国ナショナリズムの反撃態勢が成立する情勢になった。

 こうした中国大陸の情勢変化に対応して、日本側の一部には「中国再認識論」も起こったが、大陸政策の主役であった陸軍主流の中国認識は、依然としてあらたまらず、11年以降における華北工作の停頓に対し、武力行使をもって打開すべきであるとの安易な強硬論が横行していた。

 一例をあげると、支那駐屯軍参謀長の酒井隆少将は12年に公刊した著書のなかで、「中国人の救われざる悪徳」を自己の体験と研究から詳説して「支那は一つのしゃかいではあるが国家ではない・・・あるいはむしろ支那は匪賊の社会であるといった方が適評」と書き、永津支那課長は、派兵の是非に際し「上陸させんでもいいから太沽付近まで船を持って行けば支那は手を上げるだろう」と放言していた。彼らは、一般に中国ナショナリズムの動向、とくに中国軍の勢力に対しても雨傘携帯で流転していた軍閥傭兵時代のイメージをぬぐいきれず、たとえ全面的な武力衝突に立至っても、中国は短期間に屈服するだろうと考えていた。

 こうした楽観的強硬論者のなかで孤立しながら、日中全面戦争の回避を唱え、ナポレオンのスペイン戦争の例をひいて、泥沼的長期戦への危険を予告していたのは、満州事変の首謀者であった石原莞爾参謀本部作戦部長であった。

 影佐は、盧溝橋事件の勃発直後の八月異動で、砲兵大佐に昇給して参謀本部支那課長に補せられた。同月中旬、戦火は上海に飛火し、華北の一局地事件は日中全面戦争に拡大する。海軍の要請で上海に送られた陸軍三個師団は、郊外のクリーク地帯を利用した堅陣による中国軍の抵抗にあって苦戦し、死傷者が続出した。

 政治謀略に没頭して、地味な兵要地誌をおろそかにしていた「支那通」の怠慢が、この苦戦を招いた、という批判の声があがった。

送り仮名は原文通り。漢数字の年号は算用数字に修正。

 

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