近代日本と中国〈33〉

「影佐禎昭と辻政信」 9

 

 蒋政権との和平工作

 東亜連盟の構想は「世界最終戦論」という石原独特の戦争哲学から発したもので、「国防の共同」「経済の共通」「政治の独立」を三原則としてかかげ、日中戦争中に”満州”・中国で石原たちが予期したよりもはるかに急速な拡大をとげた。とくに占領地の人心を掌握する思想の貧困に悩んでいた支那派遣軍は重慶政権と中国共産党のナショナリズムに対抗する有力な理論的武器として、この運動をとりあげたのである。

 しかし国境を越えた、東亜連盟運動の拡大は、軍主流の目に、大政翼賛運動や従来の占領地統治政策をゆるがす「異端思想」として映じた。どの結果、東条陸相らは満州国、汪政府の東亜連盟共同宣言が発表されるに先立って、16年1月の閣議決定で、「皇国の主権を晦冥ならしむ虞れあるがごとき国家連合理論」として連盟運動を非合法化してしまった。

 そして辻も台湾軍に移って、マレー作戦の準備に専念し、ついで太平洋戦争がはじまるとシンガポール攻略、ガダルカナル攻防戦で戦場の硝煙中に明け暮れた。

 辻が大佐に昇進して、再び中国に戻ってきたのは、戦争後半期の18年8月であった。支那派遣軍総司令部で、汪政権の内面指導と広報補給を担当する第三課長というのが、彼に与えられた新しい職務であった。

 すでに選挙区は日本にとって決定的に不利と化しつつあり、軍事作戦の面ではかろうじて優勢を保っていたものの、汪政権は法幣インフレにより、経済的基礎を崩されつつあった。しかし、南京、上海などの主要都市では日本軍の高級将校たちが、いぜん権力者として君臨し、植民地生活の特権を最大限に享受していた。こうした空気は、ガダルカナルの戦場帰りであった辻を刺激した。

 風紀、軍紀の取締まりは、彼の職掌ではなかったが、辻は呵責なく将校たちの非行をただし、料亭を征伐し(上海一の料亭を焼払ったは辻の命令だ、と噂された)、たちまち彼の名は、総軍を風靡した。

 辻は汪兆銘とはしばしば会見して、その高潔な人格に心服してはいたが、日本を救うのは蒋政権と和平を結ぶ以外にない、と信じ、早速行動に移った。

 

送り仮名は原文通り。漢数字の年号は算用数字に修正。

 

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