近代日本と中国〈33〉

「影佐禎昭と辻政信」 5

 

 汪兆銘の引出しをはかる


 石原は九月末、その不拡大論が敗れ、「日本は今に大きな失敗をしでかして、中国から、台湾から、朝鮮から、世界中から日本人がこの狭い本土に引き揚げなければならないような運命になります」と予言して、参謀本部を去った。影佐が、石原と親密な接触を持ったのは、おそらく、この二か月足らずの短期間にすぎなかったであろうが、与えられた印象は深刻であった。

 のちに彼は犬養健に「石原少将の徹底した中国に対する非戦論の棍棒で容赦なくたたかれて、はじめて雲水坊主のように、迷いの眼を開いてもらったのです」と告白したが、本来頭脳の鋭い影佐のことであるから、石原の感化が、彼の生涯における一転機となったであろうことは、容易に想像される。

 13年1月16日、「蒋介石を相手にせず」との第一次近衛声明が発せられ、蒋政権を対象とした、日中和平の見通しは絶望化した、と見られたが、翌2月には松本重治(同盟通信上海支局長)、西義顕(満鉄社員)らの仲介で国府亜州司日本科長の董道寧が来日して、影佐と横浜で会見し、和平の可能性を打診した。

 当時、影佐は新設の参謀本部謀略課長に転じていたが、董を多田参謀次長に紹介し、董は一・一六声明の取消しは可能だという印象を抱いて帰国した。ついで7月には、亜州司長の高宗武が来日し、影佐や今井武夫中佐(支那班長)らと会談した。

 蒋に集っている国民的人気を無視しえない以上、現実的な和平案としては、外部から強力な和平運動を起こして蒋に翻意を促す以外にない、というのが日本側の感触であり、この線で蒋に匹敵する大物として汪兆銘の引出し案が浮かんできたのである。

 影佐の遺稿である『曾走路我記(そぞろがき)』によると、彼は上海時代に日本の圧迫と排日の激化という悪循環をいかに断ち切るかについて悩み、徹底的な譲歩か強圧の両極端以外に、日中関係を根本的に解決する方策はないだろうと考えていた。そして汪行政院長が日中提携のため献身的に尽くしていた努力には敬意を払うが、残念ながら、その政治的勢力は小さく、期待できない、と判断していた。

 この判断は昭和13年の時点においても、本質的には変わらなかったであろう。そうだとすれば、影佐の汪引出しこうさくは、参謀本部謀略課長としての職務意識から着想されたものであり、土肥原中将を筆頭とする陸軍主流が、古色蒼然たる旧軍閥の巨頭呉佩孚(ごはいふ)を引出そうとしていたのに比して、蒋に次ぐ国民党内の文人派リーダーに着目した点が、新味であったといえようか。

 しかし外務省の石射東亜局長も、影佐らの謀略で汪のような大物が簡単に引出されるとは思わなかったらしい。

 

送り仮名は原文通り。漢数字の年号は算用数字に修正。

 

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