近代日本と中国〈33〉

「影佐禎昭と辻政信」 2

 

 異例の知性派・影佐

 汪兆銘政権の産婆役として名が記憶されている影佐禎昭は、陸軍「支那通」の本流である。参謀本部支那課出身者のなかではやや特殊な経歴の持主であった。彼の伝記的記録は、これまでまったく知られていないので、未亡人から提供された資料によって、その概略を紹介しよう。

 影佐は明治26(1893)年3月7日、広島県沼隈群柳津村(現在は福山市)で造次の長男として生まれた。影佐家は、代々広島浅野藩士の家系で、漢学を家学とし、祖父や槍の指南番をつとめていた。父は離縁して、当時の失業士族の多くがそうであったように教育者の道を選び、最後は、柳津小学校校長で終わった。

 影佐の幼名は亨であったが、早死の相があると言われて陸大学生のころに禎昭と改名したという。

 小学校を終ると、大阪にいた姉の嫁ぎ先に寄宿して、大阪府立市岡中学に入り、卒業後陸軍士官学校に進んだ。日露戦争直後の軍人ブームの時代でもあり、この世代としては、ごくありふれた立志のコースであったにちがいない。大正三年陸士を卒業して砲兵少尉に任官、大阪の野砲四連隊で少、中尉時代をすごした影佐は、同9年陸大に入学、12年末に優等生として卒業、恩賜の軍刀を拝受した。一年後には中隊長勤務を終えて、参謀本部作戦課勤務となったが、ここまでの経歴は、青年将校のだれもが羨望してやまない坦々たるエリート・コースであったといえよう。

 半年後に影佐は、聴講生として、東京帝国大学法学部政治学科に派遣される。

 この帝大聴講制度は、田中義一陸相の発案と伝えられ、大正デモクラシーと軍縮の風潮のなかで、反軍思想の拡大を憂慮した田中が、軍人特有の視野の狭さを矯正するのが目的であった。当時は入営兵のなかには、社会主義思想に感染していた者もあり、兵の教育責任を負っていた中隊長クラスには、単に危険思想として排撃するだけでは足らないとして、自らマルクスや河上肇の著書に取組む者も出ていた。陸士、陸大の教育では、到底こうした需要に応じることはできないので、陸軍は、将来を約束された優秀な中堅将校を、東大の法経文学部に派遣して、時代の激動に適応しようとしたのである。

 影佐は、この制度における第二期生であり、前後の聴講生には、西原一策、池田純久、田中清ら、昭和史に名を残した軍人も少なくない。

 東大では、上杉慎吉博士の憲法や、山田三良教授の国際法等を熱心に聴講したが、このころまでに影佐はすでに中国専門家へ転向することを決意していたらしい。

 当時、陸大を上位の成績で卒業した将校は、陸軍省、参謀本部、教育総監等の中央官衛で、幕僚勤務を見習ったあとフランス、ドイツ、ロシア、イギリス、アメリカ等の先進国に二、三年軍務局所管の駐在員として留学する特権を与えられていた。

送り仮名は原文通り。漢数字の年号は算用数字に修正。

 

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