近代日本と中国〈33〉

「影佐禎昭と辻政信」 11

 

 「自立中立論」を唱えて

 戦犯を解除されたのちの辻はただちに選挙に打って出て、国会議員に当選、昭和36年にラオスで行方不明になるまで、「自立中立論」を唱える特異な政治家として、活躍する。

 彼の政治的地盤は故郷の石川県民と旧軍人グループで、昭和24年に死んだ石原莞爾は、辻を東亜連盟運動の後継者として期待したようであるが、連盟は「自立中立論」で一本にまとまらず、結局分裂してしまう。

 政治家としての辻は、自民党内では孤立していたが、外交、国防政策面では周恩来、ナセル、ネールらと会見するなど、相変わらずのたくましい行動力を示している。

 昭和36年4月、辻は北ベトナムへの潜行を志してタイからラオスに入ったまま行方不明となった。

 潜入の目的はいまだに明らかでないが、彼の出発の直前に、就任したばかりのケネディ米大統領にあてて送った意見書のなかで、ダレス流の干渉政策の中止、アジアの民族自決の尊重、中国の国連加盟等を要請しているところからも、インドシナ半島で拡大しつつあった戦乱を解決するために、なんらかの役割を果たそうとしたのではないか、と想像されている。

 このように辻の国際感覚は、多分に時代を先取りした面があったが、あまりにも現実に即して転向を繰返しているため、その強烈な行動力とあいまって、オポチュニストのそしりを受けがちであった。

 それにしても、陸軍の旧支那通グループが、敗戦後は台湾政権に肩入れしたなかで、辻だけは独自の道を開拓しようとしていたといえそうである。

 日中復交を目前にひかえ、あらためて日本人の中国観、アジア観の源流が問い直されようとしている。影佐と辻は、明治いらい100年近い日中交渉の歴史に登場した数多い日本人のなかのわずか二人にすぎない。

 二人の生涯と活動を通して、われわれは、この問いかけに対する一つの示唆を得ることができよう。

(はた いくひと・大蔵省戦後財政史室長)

 

送り仮名は原文通り。漢数字の年号は算用数字に修正。

 

TOPへ

inserted by FC2 system