近代日本と中国〈33〉

「影佐禎昭と辻政信」 10

 

 戦犯をまぬがれて重慶へ

 その一つは浙江省で、蒋介石の亡母のために慰霊祭を催したことで、いかにも辻流の奇想天外な思いつきであるが、このことを聞いた蒋は、会議の席をはずし、一人別室に退いて涙にくれたと、辻は著書『亜細亜の共感』で得意そうに書いている。

 辻は、こうしたした工作の後、単身重慶に乗込んで、蒋とひざづめ談判で和平をまとめたい、と進言したが、許可されなかった。

 重慶乗込みにどれだけの成算があったかは別として、客観的に見れば日本側の内部の政策不統一に苦汁をなめ続けてきた蒋政権が、一大佐にすぎない辻を信じるとは考えられなかった。

 こうして辻の熱望は、握りつぶされたままになり、加えて作戦至上主義をとる軍主流との対立もあって、一年後にはビルマの軍参謀に転出させられた。

 しかし、蒋母慰霊の件は、重慶政府に彼の名を印象づけたらしく、終戦直後に戦犯を逃れて、僧服に身をやつし、『潜行三千里』の逃避行に出発した辻を迎えいれるきっかけになった。そして辻は、蒋政権の情報機関で、土肥明夫中将らとともに対中作戦のための兵要地誌作成に当ったが、まもなく敗戦つづきの日本本土へ帰った。

 辻の逃避行が何をめざしていたかは、あまり明確でない。ベストセラーになった『潜行三千里』は、痛快な冒険談に富み、読者をして「手に汗をにぎらせる」スリルには富んでいるが、その動機については、終戦の詔勅が出た直後に「腹を切ってお詫びするのが武士道だが…苦悶ののち一人で大陸にもぐり、仏の道を通して、日タイ永遠の柱になろう」と決意したと書いているにすぎない。

 もっとも『辻政信は生きている』(1976年刊)を書いたサンケイ野田衛記者によると、辻の潜行は、同僚林憲兵大佐が日本の敗退のあとアジアの指導者となるべき蒋介石を助けて、中共軍を撃破することをすすめたからだという。

 そして半年もたたないうちに、彼はタイを去って中国に移り、「新しい日本と勝った中国との合作」を説く意見書を蒋介石にあてて書き、また陳公博ら旧汪政権幹部のために助命嘆願を試みる。

 

送り仮名は原文通り。漢数字の年号は算用数字に修正。

 

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