近代日本と中国〈33〉

「影佐禎昭と辻政信」 1

秦郁彦

朝日ジャーナル
1972年9月29日

 

 「参謀本部支那課」の役割

 明治維新から1945年に至る日本が対外関係のなかで、もっとも深いかかわりをもったのは、ほかならぬ隣国の中国であった。

 それだけに、各分野において「支那通」と称された人々の数は「大陸浪人」と呼ばれたアウトローたちまでを含めると、「アメリカ通」や「ドイツ通」に比して、格段に多かったといえよう。しかし、真に中国と中国人を理解し、それぞれの時点で適切な判断力を示した「支那通」がどれくらいいたか、ということになると、問題はまったく別である。

 彼らの多くは、口に「同文同種」を唱え、「アジアの連携」や「日支親善」を繰返していたが、実際には、中国を日本帝国主義の侵略対象としてしか見ていなかった。それは軍人にとっては、武力によって征服されるべき予定地であり、貿易業者にとっては、日本商品のなだれこむ巨大な市場であり、一部の浪人たちの目には、かつてのアメリカ西部と同じように切取り勝手の自由が残された無政府的社会として映っていた。こうした中国観のなかからは、ナショナリズムにめざめて、統一された近代国家への道を歩みはじめた中国の未来を、冷静に直視する立場が生まれなかったのは当然であろう。

 かえって明治期にさかのぼると、中国の近代化を素朴に期待し、歓迎する空気が日本にも存在した。彼らが抱懐した「清国改造論」は。結局、夢想に終わったが、辛亥革命の勃発(1911年)は一部の日本青年の心情をゆるがせ、革命陣営に馳せ参じた者も少なくなかった。この時、のちに日中戦争で重要な役割を果す、若き日の石原莞爾少尉は、朝鮮の駐屯地にいたが、裏山に兵をひきいて登り、はるかに中国大陸を望んで「辛亥革命万才」を叫び、「新しい中国の前途に心からの喜び」をおくった。しかし、いくばくもなく、袁世凱らの軍閥時代が出現するに及び、「漢民族は高い文化をもってはいるが、近代的国家を建設することは不可能ではないか」と絶望した石原は、一転して中国征服論者の列に戻り、「中国人自身の幸福」のために“満蒙”(および中国本土)の領有を主張するに至る。

 また陸大の学生であった山中峯太郎中尉は、革命軍に投じるため、軍職を辞して中国に渡るが、数年のうちに見切りをつけて帰国し、少年向けの冒険小説の作家に転身した。

 大正時代において、中国の近代化に依然変らぬ期待をつないでいたのは、吉野作造博士ら、限られた少数のリベラリストにすぎず、大多数は石原や山中がたどったような心情的挫折を経験したはずである。

 ところで、明治以来、もっとも組織的に「支那通」を養成したのは、日本陸軍であった。絶対数は必ずしも多くはなかったが、浪人をはじめとする他の分野の「支那通」が、どちらかといえば、場当たり的に生み出されたのに対し、彼らは幼年学校の段階から、中国語を学び、参謀本部支那課の一貫した方針のもとで組織的に育成され、陸軍という大勢力を背景としていただけに、きわめて強力な発言権を行使した。欧米先進国を模範としたエリート将校のあいだでは、時に「支那屋」と蔑称され、閉鎖的社会を形成していた彼らが、もっとも華やかな活動舞台を与えられたのは、1928年の張作霖事件前後から太平洋戦争に至る時期であった。

 河本大作、多田駿、板垣征四郎、土肥原賢二、岡村寧次、磯谷廉介、酒井隆、根本博、田中隆吉、影佐禎昭、花井正、今井武夫、鈴木卓爾らが、この時期に活躍した支那課出身の花形軍人である。

 河本が陸士一五期、鈴木が三四期の出身であるから、およそ20年の幅があり、伝統と等質性を誇った参謀本部支那課や陸軍という巨大な官僚組織の制約下でも、新旧世代の感覚の変化は看取される。とくに日中戦争の処理という苦悩のなかで、新しい世代は、伝統的な中国観や中国政策の批判者として台頭した。

 また満州事変以後、日中関係の比重が高まってくるにつれて、支那課出身者以外にも対中国政策の形成に重要な役割を果たす者が出てくる。

 本稿では、こうした新しい世代の中から両者を代表する陸軍軍人として、影佐禎昭と辻政信の二人をとりあげてみる。

送り仮名は原文通り。漢数字の年号は算用数字に修正。

 

2 へ

TOPへ

inserted by FC2 system